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書くことは人を確かにする。

2023/08/12
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 紙に触れると、心地よいのはなぜか。
 手触りが人の気持ちを和らげるのだろうか、あるいはその質量が鍵をにぎっているのかもしれないし、触覚だけではなく、インクの匂いに呼び寄せられているとも言える。
「本を開く」という行為が「未開を拓く」メタファーとなっている可能性だってある。まだ見ぬ何かを捉えることは、好奇心を刺激する。
 どれも決定的とは言えないまでも、紙の持つ魅力は、SNSの与える倦怠感や苛立ちとは一線を画すものだ。

 僕が南アルプス南部の麓、この地に工房を構えた理由はいくつかある。
 もちろん、フィールドに近いことは何よりの恩恵をもたらす。日が昇る前に起床する努力を苦にしなければ、森林限界の上に立ち、適度な疲労感とともに、正午を迎える前に工房で仕事に勤しむことだってできるし、天気図に睨みを効かせ、最高と思しきタイミングに渓に身を浸して魚を追うことについても、物理的近接というものは優位性を見出せる。
 しかしそれらは、僕のアウトドアマンとしての視点から捉えた一面に過ぎない。

 この地で製品を磨くことに第一義がある。僕は作り手なのだ。フィールドで得た糧を、この手で生み出すモノへ還元する。その繰り返しと、使い手からのフィードバック、双方向からのアプローチで僕は看板を磨いてきた。
 南アルプス南部という些か辺鄙な場所が、その説得力を増すのではないか。人の少なさを梃子に、僕は重い扉を抉じ開けることを思い浮かべ、その像をトレースすることを目指してきた。北アルプスの華やかな玄関口に工房を構えていたら、結果は変わっていただろう。

 もう一つ、この地を選んだ個人的な理由を挙げるとすれば、やはりその辺境性にある。
 山と河のほか娯楽のないこの場所で、孤独に暮らすことを通して自分自身を変容させる。野外に身を置くこと。加えて、出来るだけ多くの本を読み思索することで「僕」という個人は形作られるはずだと、そう思った。しかし、周到に材料を取り揃えるだけでは、何も建ち上がらないのだ。

 読むことは人を豊かにし、話すことは人を機敏にし、書くことは人を確かにする。

 入力ではなく、最後に人を形作るのは出力である。願わくば紙として残したいが、背に腹はかえられない。日々の思索の跡を、この場所に書き記すことで、輪郭のぼんやりとしたこの自分を、解像度高く捉え直したい。

 そしていつか、インクの匂いのする、質量のある、誰かの好奇心を刺激し得るようなものを生み出せるよう、その足掛かりとしたい。そのために、僕はこの場所へ書くことをはじめる。

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