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”機能”とは何か。

2023/11/12
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ル・コルビュジエの遺した「住宅は、住むための機械である。」という言葉がある。
彼の言わんとしたことは何か。僕は長年、その言葉の冷徹な印象が心に引っかかったままだ。
これは僕の誤読かもしれない。しかし、誤読であったにせよ、この言葉が僕に思索のきっかけをくれたのは事実なのだ。

機械とは、便利さを追求する中で生まれたものだ。現代に生きる僕らは機械に囲まれて生活している。機械には目的がある。冷蔵庫は食材を冷やして貯蔵するためのモノ。掃除機は塵を吸い込むためのモノ。洗濯機は衣類を洗浄するためのモノ。そしてその目的への最短経路を辿るものが、優れた機械と呼ばれるのだろう。
効率よく、真っ直ぐに。
そこに無駄があってはならない。回り道をしていては、ライバルに追い越されてしまう。それはプロダクトを作る者の抱く強迫観念のようなものと言えるかもしれない。機能とは、そのモノが持つ目的達成能力とも言い換えられる。

例えば、いま僕の手元にあるiphone。4年前に買ったもので、モノとしてはさほど古いものではないはずなのだが、1年周期で新機種が発表されるiphoneの世界では、もはや時代遅れとして扱われてしまう感は否めない。Appleのサイトに飛べば、親切にスペックを羅列してくれており、プロセッサの処理能力やカメラの画素数、バッテリーの容量に至るまで各モデルを比較しやすいように『iphoneを比較する』ボタンまで設けられている(当然、最新機種が過去のモデルを上回っている)。

ここで問い直したい、”機能”とは何か。

作家である平野啓一郎氏の著書『「カッコいい」とは何か』の中にこんな一節がある。

 プロダクトは、基本的に合目的的であり、椅子にせよ、トースターにせよ、用途が明瞭で、その存在と意味が一対一で対応している。他方、芸術の目的は、一義的には、美なのか崇高なのか、ともかく、私たちが感じ取る何かであり、必然的に多義的に開かれている。鑑賞者によってその受け止め方が異なり、しばしば役立たずと批判されるように、特に用途はない。
しかしこれは、たちまち色々な反論を思いつく、あまり説得力のない二分法だろう。
プロダクトデザインにも美的な意匠は施されており、それは多分に芸術的である。また彫刻も、歴史的には、建築や広場といった展示会場に適合的であり、また製作には、構図の決定など、デザイン的な視点の導入が必要な段階がある。人の心を癒す、あるいは刺激する、という意味では、立派な社会的な機能を果たしているとも言える。その時、表現はその目的に準じている。ー『「カッコいい」とは何か』(平野啓一郎)

さらに、プロダクトデザイナーの山中俊治氏は著書『だれでもデザイン』の中で、”機能”を「工学的機能・心理的機能・社会的機能」の三つに分類している。以下、引用する。

 3つに分けた機能のうちの、工学的機能とは、大雑把にいえば、測定可能な機能です。吸引力とか冷却力、精度や速度など、いわゆる基本性能っていわれるやつ。軽くて丈夫、コンパクトで持ち運びしやすいなどの寸法や重量なども、これの一部。工学的機能は、数字で表すことができるから最初に決められる。それらを数字で表す科学技術があれば、計画できるのが特徴です。
これに対して心理的機能は、快適さ、心地よさ、かっこよさなど、人の気持ちに対して働きかける機能です。美しいとか愛着とかもだね。心理的機能に共通する特徴は、とても測定しにくいこと。「使いやすさ」は作業時間を測ることによって、多少測定できるけど、美しさや愛着になると、もう、ほとんどお手上げです。そこで芸術の方法が使われる。自分がいいって思うものを作って、みんなに見せることですね。これは表現力を鍛えなきゃいけない。
3つ目の社会的機能ですが、この機能の一番わかりやすいものは「儲かる」ってこと。売れると言うのはいろんな機能の結果だけど、「儲かる」はちゃんと計画できる。どのくらいの値段のものをどういうコストで作って、誰に買ってもらうか。そういうことはマーケティングやブランディングなど、文化系の知識に支えられた手法でデザインできます。ー『だれでもデザイン』(山中俊治)

僕らは”機能”を、実際的に目に見える働きとして捉えがちであるが、この両者の語るところのように、機能には目に見えない側面、換言すれば僕たちにとって測定不能な側面も有しているのだ。

測れないのはなぜか。それは適切な「ものさし」がないからである。

小学二年生のある日、算数の授業で30cmの竹ものさしが配られた。子どもとは新しい道具を手にするだけでワクワクするものだ。今日からこれをランドセルの脇に差して帰れる。男の子は下校中、意味もなく取り出して新たな武器の手触りを確かめただろう。
竹ものさしに印された細かな目盛は、前後左右の席の友達が握るそれらと寸分違わず、みんな同等なものだった(それ故に測定器具としての存在意義がある)。だから、裏に自分の名前を書かされる。みんなにとって同じもの。
僕の測った10cmは、隣のAくんが測っても、その隣のBちゃんが測っても10cm。長さを測れるのは「みんな同じ基準を使っているよね」という共通理解があるからこそだ。

しかし、前述の山中氏が言うところの「心理的機能」には、ものさしとなるもの、つまり共通の基準がない。Aくんにとって、あるいはBちゃんにとって、僕と同じ価値を感じるものである証拠はないのである。

ここでもう一冊、紹介をしたい。ジェリー・Z・ミュラー氏の著書『測りすぎ-なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?』一冊を通底して語られているのは、測ることにより生まれてくる弊害である。ミュラー氏はそれを「測定執着」と名づけている。

 適切に使用すれば、測定は有益になり得る。だがそれらは歪められたり、脱線させたり、押し退けたり、焦点をずらしたり、やる気を削いだりもする。…測定に害悪について語るわけではない。問題は測定ではなく、過剰な測定や不適切な測定だ、測定基準ではなく、測定基準への執着だ。ー『測りすぎ-なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?』(ジェリー・Z・ミュラー)

果たして、測ることを過剰に求められる社会の行く末に待っているのは、どんな世界か。そして、測れない価値に目を向けた先に見えるのは、何か。

「測れないけれど、私にとって”これ”は大きな機能を有している」そう言い切るためのただ一つ明確な根拠は、「私は心を動かされた」という、動かざる事実だ。

 僕は、そういうものを作りたい。

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